文章を書くのは難しい、は当然
ボクはこうして文章を書いている。
得意なのかという言われると、条件さえ揃えば割とずっと綴っていられるくらいだと思う。
できるだけ自分で読み返してもつっかえずにスッと読める文章を心がけていて、それが出来上がると気分が良い、とも感じている。
さて、その人の人生を文章にすると一冊の本ができあがると言われている。
これは「どんな単調に見える人生にもドラマはあるよね」という文脈でよく引用されるフレーズだが、ここではそういう意図ではない。
実際のところ、自分の人生を一冊の本にするなんて、かなり難しい。
なぜなら、ちゃんとした文章、もっと言えば人に見せるための文章なんてそんなに書く機会はないからだ。
日本は諸外国に比べ識字率が高いことで知られていて、字が読めない書けない人は稀だと言える(ボクは会ったことはないが、そういった方が一定数いることは知っている)。
また、日本人は歴史的に見ても私小説的なものが好きなようで、「個人の日記がベストセラー」という文化も持っている。
そうなってくると、本という敷居が低くなるので、案外簡単に書けそうな気分になるのだけれど、実際に書き始めてみると分かる。
文章を書くのは難しい、と。
では、これが絵だったならばどうだろうか?
絵をこれまでそんなに描くことのない人生を歩んできて、いきなり何かの絵を描こうとすると、それは簡単だろうか?
とんでもない。絵だって描くのは難しい。
何が言いたいのかというと、文章を書くのも絵を書くのも同じくらい難しいということだ。
なぜこんなことをわざわざ言ったのかというと、日本人という特性のためか、多くの人は「文章を書くのは難しい」と思っていないからだ。
文章を書くプロセスと絵を描くプロセスは本質的に同じで、頭の中にある抽象的な概念を、文字もしくは絵として具現化させる、というものだ。
これだけのことだけれど、これだから難しい。
どこが難しいのかというと、選択肢が無数にある点だ。
文章で言えば、一つの表現を取ったところで実に多彩なバリエーションがある。
加えて、文章の流れや構成の仕方、文体などのことも考えると、無限に近い選択肢がある。
実際のところ、無限の中から選択なんてできないので、自分というフレームの中にある有限の選択肢から取り出すことになるのだけれど、それだって十分に多い。
文章も絵もそうだが、無数の選択肢から素早く絞り込む、というのがコツになる。
この点を勘違いしていると、どんどんドツボにハマっていく。
典型的なパターンとしては「途中から何が言いたいのかわからなくなった」パターンだ。
子供のころの読書感想文で、そういった苦い思いをしたことはないだろうか?
思いついたことをポンポン書いていくと、何が言いたいのかわからない文章が簡単にできあがる。
そしてもう1つ「どうやって終わらせよう」もドツボのパターンと言える。
途中まではいい感じで来たのに、ゴールが見えず迷子になっている文章だ。
ちなみにここまで来て、私も「どうやって終わらせよう」という気分になってきた。文章を書くのが割と好きな人でもこうなる。
ここで言いたいことは、「文章を書くのは難しいことで、実は誰にでもできることではない」ということだ (お気づきだと思うが、この話を無理やり着陸させようとしている)。
「誰にでもできる」みたいなことを言う人もいるが、全然なそんなことはない。
普段からそういったことをしていないのなら、できないのは当然だ。
なので、文章を書こうとしてうまくいかなくても気を落とすことはない。
書いた分だけ、読んだ分だけ上達していくのだから。
逆に言えば「何もしなければずっと書けないまま」なわけだけれど、そんな当たり前のことは誰だって知っている。
「悪業 (あくごう)」を観るという生き方は、人生でかなり使える
最近Audibleで仏教関連の本を聴いたところ、「悪業 (あくごう)」という概念が人生のいろんな場面で役に立ちそうだと感じた。
仏教の言う「業 (ごう)」とは、その人の根源的な性質のことで、物事への反応や行動に至るまでのスクリプトのようなものだ (とボクは理解している)。
業には良いものと悪いものがあり、後者を「悪業」としている。
悪業にはいくつか種類があり、そのすべてを覚えているわけではないが、確かこうだったなと思うものを列挙してみる。
怒り
高慢
支配
妄想 (思い込み)
無関心
執着
ちなみに別の仏教の本では、多くのマイナス感情は「怒り」がベースになっていて、現れた方が違うだけで本質は同じだと説いている。
さて、字面だけでどんなものなのか想像に難くないと思うので、詳しい内容は割愛するとして、悪業について特筆すべきだなと感じたものを2つ紹介する。
1つ目は「悪業は伝染する」というものだ。
人の脳には「相手を模倣する」ことに特化した「ミラーニューロン」と呼ばれるものがあるくらい、周囲のマネをすることを重視している。
これが悪業の伝染に影響しているのかは定かではないけれど、経験則的に見ても「相手の嫌な部分」は受け継がれていく。
子を見ると親の性格が分かったりするのもこれで、悪業の強い親の元で育つとその業を子どもも背負うことになる。
特筆すべき2つ目の点は「悪業は育つ」というものだ。
これも結構怖い話だと思うのだが、知らぬ間に悪業を大きくしてしまい、人生がにっちもさっちもいかなくなっている人は意外に多い。
悪業が育つ原因は脳科学的にも説明ができる。
人間の脳にあるニューロンは電気信号で情報の伝達を行っている。
ニューロンは太いほど電気信号の通りは良くなるのだが、よく使われるニューロンほど太くなる。
仮に怒りの悪業を持った人がいたとすると、その人の怒りに関わるニューロンは、そうではない人に比べると太くなっている可能性がある。
つまり、脳が怒りに反応しやすく成長しているというわけだ。
こうして些細なことで怒りのニューロンを発火させ、そのニューロンを強化し、怒りにまみれた人生を送ることになる(怒り以外の悪業でも同様に)
さて、悪業の怖さが分かったところで、これが人生にどう役立つのだろうか?
まずは「自分の悪業」を知り、それを育てないように、もっと言えばなくしていくようにしていくことが大切だ。
そして「自分が関わる人たちの悪業」を知り、それらから身を守ることも同じくらい重要になってくる。
ちなみにボクは地味に後者が大切だなと感じている。
なぜなら悪業は伝染するからだ。
仮に自分の悪業をうまく消せたとしても、無尽蔵に周囲の悪業が伝染してきては意味がない(とまでは言わないが骨折り損感が否めない)。
周囲の悪業から身を守る手っ取り早い方法は「距離を取る」ことだ。
「それができるのなら世話ない」という方もいると思うし、その気持は個人的にもよく分かる。
そこで次に有効な手段としては、相手の良くない部分を「個人」として観るのではなく「悪業」として観るというものだ。
「それで何が変わるのか?」と思うかもしれないが、悪い部分が誰にでも見られる普遍的な「悪業」によるものだと理解していると、結構冷静に対処することができるようになる。
相手から嫌なことをされても、「あぁ、これがこの人の悪業の為せる業か」と客観的に観ることができるし、「感染しないようにしないと」という意識も働く。
何より「感染しないようにしよう」という意識が大切で、これがひいては「悪業に反応しない脳」を育てることに繋がる。
やってみると分かるが、悪業に反応しないというのは意外に難しく、気がつくと振り回されていることがある (個人的には怒りの業に反応してしまう)
とはいえ、修行だと思って繰り返しチャレンジしていくしかない。
脳の配線を変えるのはそう簡単な作業ではないからだ。
今まで右手でやってきたことをすべて左手でやれるようにするくらい、だと思えば一度や二度の失敗でくじけている場合ではない。
さて、実はここまで触れてこなかった「他人の悪業への対処方法」がもう1つある。
それは「相手の悪業をどうにかする」というものだ。
悪い態度をとってくる相手を説教するなり何なりして態度を改めさせる、という世間的に見ても良く使われている方法だ。
先に結論を書いておくと、これは「やめておいた方が良い方法」だ。
そもそも「他人をどうこうしよう」などという考えは、「高慢の悪業」に当たる上に、その成果はまったくといいほど保証されない。
けれども不思議なことに「どうにかできるかもしれない」と楽観的に考えてしまいがちで、ともするとそれに執着してしまうことにもなる(これも悪業)。
無論、何も言わずに放置する(これも悪業)ことが正解というわけではないが、「絶対に変えてみせる」と考えて臨むと、それが自分の悪業になってしまう。
個人的には「まぁそう簡単に変わることはないけれど、きっかけになったらラッキー」くらいのライトな感覚で臨むのがお手頃だと思う(もちろん相手による)。
ちなみに仏教の開祖であるお釈迦様(ゴータマ・シッダールタ)でさえも、弟子を選ぶときには「それを理解できる人」から優先的に教えを説いている。
つまりそれだけ「業」というものは根強く、「他人の悪業」ほど面倒なものはないということだ。
人生とは悪業との勝負なのかもしれない。
(自分の悪業をどうにかする方法については、また触れる機会が触れていきたいが、自分のことなのだから、本を尋ねることを何よりおすすめしたい)
個人が「スキルアップ」すると「属人化」していく
個人がスキルアップをすると、自然と仕事は属人化していく。
ということに最近気がついた。
そもそもスキルアップとは、周囲と同列かそれ以上の能力を獲得していくことだが、周囲が持っていないスキルほどより価値は高い。
そしてスキルは鍛えていくほどに周囲を追い抜いていくことになるため、その過程で得られる成果物もまた、周囲のものよりも高度になっていく。
すると扱える力にも差が生まれていく。
これがいわゆる属人化のメカニズムだ。
ちなみにこれは仕事というジャンルに限った話ではなく、広く社会一般に見られる。
(デジタル・ディバイドなど)
「この人がいないと仕事が回らない」という状態は、おそらくどの企業でも見られる現象で、それを完全に回避するのは難しい。
なぜなら人の能力には「差」があるからだ。
「その差を埋めればいいじゃないか」と考えるのは必然だが、そもそもその差が縮まらないのも「個人の差」によるものだ。
属人化はその人材が抜けたときのインパクトが大きくなるため、避けたくなる気持ちはわかるが、避けていると個々のスキルは上がらなくなる。
世の中の技術は指数関数的に高度になっていき、人に求められる能力も日毎に高度なものになっている。
スキルアップと属人化はトレードオフの関係にあるわけだが、「和をもって尊しとなす」の文化が根強い日本では、うまくバランスを取ることはできていない。
もし効率よくスキルアップを図っていきたいのであれば、自分よりも能力が高い人たちのいる環境に行くしかない。
そうしないと「属人化を避けたい上司」の圧力で「出る杭」は打たれてしまう。
人生に迷った時は目的を思い出すと良いのかも知れない
あなたは人生に迷ったことはあるだろうか?
ボクはよく迷う。
迷った挙句に、ようやく試行錯誤の段階に戻ってくることができたとしても、またしばらくすると、「あれ・・・どうしてだろう?」と迷いの森に入ってしまう。
人生に迷いはつきものだけれど、喜んで迷うことなんてない。迷わず邁進していけたら、どれだけ心地よいだろうかとさえ思う。
人生を30年ほど歩んできて、道に迷う時のパターンがだいたい掴めてきたのは、ここ最近になってからで、それでもいつもうまく行くとは限らない。
わかったのは、大抵の場合「目的」が違っている場合が多いということだ。
どんな行動にも大なり小なり目的が備わっているもので、日常の些細な行動にも目的があり、大きな偉業を為す時にも目的がある。
そして人生に迷う時、この目的がおかしくなっていることが多いのだ。
目的が弱い場合がある。目的が弱いという表現はおかしいかも知れないので、目的意識が弱いと言い換えておく。
目的の強さとも言えるし、継続力とも言える。
要は目的が途中で消えてしまうか、「なんのためにやっていたのか」と尻すぼみになってしまう場合だ。
目的は時と環境によっても変化する。不変の目的というものもなくはないけれど、数は限られる。
当初は必要だと強く感じていたものが、状況が変わったことで対象が変わったり、そもそもその必要性がなくなることもある。
逆に、実は必要性は変わっていないのに、やる気がわかないことへの言い訳として使ってしまうこともある。人は言い訳が得意な生き物だ。
目的が誰かによってもたらされたものである場合、ある時はっと目が覚めることがある。
いわゆる外発的動機付けと呼ばれるもので、内発的なものと比べるとその効果や持続力は弱いとされている。
勝手に自分で動機付けされることもある。気がつかないうちに期待して、気がついたら失望している場合だ。
こうしてみると、目的が正しく機能しなくなるパターンは様々だ。
目的とは人生に置ける方位磁石のようなもので、どちらに進むべきなのか道を指し示している。
北をゴールだとするなら、そちらに向かうしかないが、方位磁石が出鱈目にくるくる回り始めると、当然北を目指すことはできない。
人生に迷うとはまさにこういう状態だ。
闇雲に向かうという手もあるが、その場合どこまで行ったらゴールだと言えるのだろうか?
そしてそのゴールとは一体誰が決めるのだろうか?
当然、自分だ。
目的を失わずに人生を歩んでいくことは、実は結構難しい。多くの人が日々目的を失い、道に迷っている。ボクもそんな中の一人だと自覚している(時々忘れている)。
そうすると、どうすれば方位磁石はまっすぐ方角を差し続けてくれるのだろうか。
残念ながら絶対的な答えはない。
ただし、ヒントがあるとするならば、「なぜそうしたのか」を記録しておくことだ。
記録といのはすばらしい行為で、偉業を成し遂げた傑物たちは、なにかと記録をする習慣を持っていたと言われる。
記録をすることで自分の考えが整理され、忘れそうになったら読み返し、時間の経過でその変化を追うことができる。
特に人間は忘れっぽい生き物で、「目的を忘れる」ということが意外と多い。
忘れたことすら忘れているので、ただなんとくなく人生に迷っていることがある。これは人生に限らず、勉学や仕事でもそうだ。
どう記録するかはその人のやり方次第であり、これは性格や好みの問題でもある。
日記という形式でもいいし、Excelで記録を取るのもいい。Googleカレンダーでもいいし、実物のカレンダーでもいい。
兎にも角にも、目的を何かに記録し、それを折に触れて確認してみることが大切だ、とボクは思っている。
目的を見失わないようにしっかりとそれを見つめ、変化に機敏に反応し、柔軟に変えていけたなら、きっと人生に迷う回数は少なくなるだろう。
目的というものを軸に、自分という存在の方向性を調整する、と考えると、案外方位磁石なのは自分のかも知れない。