「悪業 (あくごう)」を観るという生き方は、人生でかなり使える
最近Audibleで仏教関連の本を聴いたところ、「悪業 (あくごう)」という概念が人生のいろんな場面で役に立ちそうだと感じた。
仏教の言う「業 (ごう)」とは、その人の根源的な性質のことで、物事への反応や行動に至るまでのスクリプトのようなものだ (とボクは理解している)。
業には良いものと悪いものがあり、後者を「悪業」としている。
悪業にはいくつか種類があり、そのすべてを覚えているわけではないが、確かこうだったなと思うものを列挙してみる。
怒り
高慢
支配
妄想 (思い込み)
無関心
執着
ちなみに別の仏教の本では、多くのマイナス感情は「怒り」がベースになっていて、現れた方が違うだけで本質は同じだと説いている。
さて、字面だけでどんなものなのか想像に難くないと思うので、詳しい内容は割愛するとして、悪業について特筆すべきだなと感じたものを2つ紹介する。
1つ目は「悪業は伝染する」というものだ。
人の脳には「相手を模倣する」ことに特化した「ミラーニューロン」と呼ばれるものがあるくらい、周囲のマネをすることを重視している。
これが悪業の伝染に影響しているのかは定かではないけれど、経験則的に見ても「相手の嫌な部分」は受け継がれていく。
子を見ると親の性格が分かったりするのもこれで、悪業の強い親の元で育つとその業を子どもも背負うことになる。
特筆すべき2つ目の点は「悪業は育つ」というものだ。
これも結構怖い話だと思うのだが、知らぬ間に悪業を大きくしてしまい、人生がにっちもさっちもいかなくなっている人は意外に多い。
悪業が育つ原因は脳科学的にも説明ができる。
人間の脳にあるニューロンは電気信号で情報の伝達を行っている。
ニューロンは太いほど電気信号の通りは良くなるのだが、よく使われるニューロンほど太くなる。
仮に怒りの悪業を持った人がいたとすると、その人の怒りに関わるニューロンは、そうではない人に比べると太くなっている可能性がある。
つまり、脳が怒りに反応しやすく成長しているというわけだ。
こうして些細なことで怒りのニューロンを発火させ、そのニューロンを強化し、怒りにまみれた人生を送ることになる(怒り以外の悪業でも同様に)
さて、悪業の怖さが分かったところで、これが人生にどう役立つのだろうか?
まずは「自分の悪業」を知り、それを育てないように、もっと言えばなくしていくようにしていくことが大切だ。
そして「自分が関わる人たちの悪業」を知り、それらから身を守ることも同じくらい重要になってくる。
ちなみにボクは地味に後者が大切だなと感じている。
なぜなら悪業は伝染するからだ。
仮に自分の悪業をうまく消せたとしても、無尽蔵に周囲の悪業が伝染してきては意味がない(とまでは言わないが骨折り損感が否めない)。
周囲の悪業から身を守る手っ取り早い方法は「距離を取る」ことだ。
「それができるのなら世話ない」という方もいると思うし、その気持は個人的にもよく分かる。
そこで次に有効な手段としては、相手の良くない部分を「個人」として観るのではなく「悪業」として観るというものだ。
「それで何が変わるのか?」と思うかもしれないが、悪い部分が誰にでも見られる普遍的な「悪業」によるものだと理解していると、結構冷静に対処することができるようになる。
相手から嫌なことをされても、「あぁ、これがこの人の悪業の為せる業か」と客観的に観ることができるし、「感染しないようにしないと」という意識も働く。
何より「感染しないようにしよう」という意識が大切で、これがひいては「悪業に反応しない脳」を育てることに繋がる。
やってみると分かるが、悪業に反応しないというのは意外に難しく、気がつくと振り回されていることがある (個人的には怒りの業に反応してしまう)
とはいえ、修行だと思って繰り返しチャレンジしていくしかない。
脳の配線を変えるのはそう簡単な作業ではないからだ。
今まで右手でやってきたことをすべて左手でやれるようにするくらい、だと思えば一度や二度の失敗でくじけている場合ではない。
さて、実はここまで触れてこなかった「他人の悪業への対処方法」がもう1つある。
それは「相手の悪業をどうにかする」というものだ。
悪い態度をとってくる相手を説教するなり何なりして態度を改めさせる、という世間的に見ても良く使われている方法だ。
先に結論を書いておくと、これは「やめておいた方が良い方法」だ。
そもそも「他人をどうこうしよう」などという考えは、「高慢の悪業」に当たる上に、その成果はまったくといいほど保証されない。
けれども不思議なことに「どうにかできるかもしれない」と楽観的に考えてしまいがちで、ともするとそれに執着してしまうことにもなる(これも悪業)。
無論、何も言わずに放置する(これも悪業)ことが正解というわけではないが、「絶対に変えてみせる」と考えて臨むと、それが自分の悪業になってしまう。
個人的には「まぁそう簡単に変わることはないけれど、きっかけになったらラッキー」くらいのライトな感覚で臨むのがお手頃だと思う(もちろん相手による)。
ちなみに仏教の開祖であるお釈迦様(ゴータマ・シッダールタ)でさえも、弟子を選ぶときには「それを理解できる人」から優先的に教えを説いている。
つまりそれだけ「業」というものは根強く、「他人の悪業」ほど面倒なものはないということだ。
人生とは悪業との勝負なのかもしれない。
(自分の悪業をどうにかする方法については、また触れる機会が触れていきたいが、自分のことなのだから、本を尋ねることを何よりおすすめしたい)